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高遠石工について*竹入弘元

はじめに

 石工(いしく)をテーマにします。石・崖という、木等に比して腐朽しにくく恒久性がある材に像や文字を刻んで、わ が思いを広く他人に知らせ、後世に残したいという願望は世界の人々が抱いていた。
 文字発明以前の縄文・弥生時代に絵画文様あり、古墳時代には巨石を組み立てて室を造る等に、岩石を刻む技術は発達 したと思われる。磨崖仏は千数百年前の朝鮮の新羅時代、中国の北魏時代から、日本でも奈良時代から見られる。奈良時 代に貴族の間に始まった石仏造立が室町時代になると、民衆の間に広まり、地蔵等がたくさん造られた 。
 現代の日本では集落の到る所の路傍に、神社仏閣に、地蔵・観音・道祖神・庚申等が見られる。それらの一つ一つに施 主がいて、切実な思いを込めて造立した。そこで、それらの調査が多様で、見て行くと村の歴史や人々の願いが知られる。 どういう石造物があるか村単位で調査する。道祖神の全国的分布を調べる等。また、石材の産地。それを造る人、専門家 として石工の存在も重要であろう。特に伊那地方は高遠石工と呼ばれた石工集団が出稼ぎで他地区でよい仕事をしたこと で有名である。
 私個人はこれまで50年ほど、個人で道祖神の下伊那を含めた伊那地域の分布調査、共同で地域石仏の悉皆調査、有志 と高遠石工の他地域での造立状況調査に山梨県・群馬県等は頻繁に、神奈川県は数回、東北地方、岐阜県にも。最近は茨 城県にも出かけた。どこでも現地の石仏研究家の探究された資料を手がかりに高遠石工の作品を見て回りそれなりに成果 を挙げてきてはいるが、まだまだたくさんあり、前途遼遠の思いは募るばかり。今回は高遠石工、あるいは伊那石工と呼 ばれて、伊那地域出身の、全国での活動状況の概観と、伊那地域ではどういう石工がいたかを見ることにする。
 石工は古くは石大工とも呼ばれ、石切・石屋などとも呼ばれ、また、石匠・石師などとも言われている。山から石材を取る。 石垣を築く。石仏を彫刻するなど種々であるが、すべて専門職で技術が磨かれると立派な芸術家であるが、江戸時代には 自他ともに職人という認識であった。



信州高遠石工の活動状況

 高遠石工の活動は中世からと言われるが、活発化するのは江戸時代元禄ころ(西暦1700年)からで、寛政・文化 (1800年)ころを頂点に江戸時代末期まで続いたが、明治近くになると急激に減少した。石工は高給取りで、8日1分、 32日の労働で金一両。藩に運上金(営業税)を毎年一貫文納めるから貧乏藩は助かった。運上金の合計はもちろん年によっ て違うが、安政3年(1856)の例では藤沢郷は石切運上金が51両余で、旅稼4両・桶師4両等を大幅に上回り、運 上金総額74両の7割を占める。つづいては入野谷郷48両余、川下郷10両余。高遠藩全体では総額313両の内、石 切運上金が119両にのぼる。
 代表的石工としては御堂垣外の向山重左衛門・清水彦之丞・保科増右衛門・保科徳次郎、栗田の孫右衛門、弥勒の伊藤新助、 水上の池上七右衛門、勝間の保科藤蔵らが地域外で主に活動したが、特に塩供の守屋貞治が全国的に定評がある。多く伊 那地域で活躍した石工には青島の渋谷藤兵衛・下殿島の小笠原政平等がいた。



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