今年(平成25年)の春、東京で木彫仏の「円空」展と、禅の書画を数多く残した「白隠」展が開催された。
2人は江戸時代に活躍した行脚僧で、日本の各地を巡り仏教の悟りを説くとともに、多数の円空仏、禅画・墨蹟を現代に残した僧侶であった。いずれも民衆に受け入れやすい素朴な造形が、人気を呼んでいるのである。円空・白隠の作品群は、仏教を拠り所とした、江戸時代における民衆の信仰心のたまものと推察される。そして、東日本大震災より2年後の今日、数々の試練を乗り越えた2人の仏教美術展が同時に開催されるのも、意義あるものと考える。
ただし、現在このような大規模展覧会を開催できるのも、2人の作品の良さを早くから見いだした先学諸氏がいたからであり、散在の災を免れて保護してきたからである。なお高遠石工の守屋貞治も、郷土の先学である「唐沢和雄・宮下一郎・北原通男」の各氏が、貞治を筆頭に旅稼ぎ石工の実態解明をしたことが最初であった。 その後、曽根原駿吉郎氏がそれらの論考を参考に、貞治の「石仏菩薩細工」帳を頼りに、全国貞治仏探訪の旅にて求めた調査を基に、『貞治の石仏―幻の石工を求めて―』(講談社刊、昭和44年11月8日)が出版されたのである。以後今日に至るまで写真集で出版紹介されたり、他者石工作品との比較等の研究報告などもなされている。平成16年には高遠町にて「再発見!高遠石工」のシンポジウムが開催されるなどして、高遠石工の実態解明が推進されている。だがそれらは断片的な研究にとどまり、より以上の成果が期待できない。一人の石工の生涯さえ把握することが困難なのである。石仏一作ごとに記名があれば手掛かりとなろうが、作者名があるのはまれなのである。そんな事情の中、守屋貞治は、晩年に記録した「石仏菩薩細工」 という手控え帳を残した、まれな石工であった。
曽根原氏が探訪した「貞治の石仏」調査と同様の旅を 実施して思うことは、実地踏査の重要性である。石仏についての見聞は、その場所に出向かなければつかめない真実がある。そして、調査行を終えて思うことは、「石仏菩薩細工」帳の重要性である。貞治が石仏造立にかける全てが、この細工帳に凝縮されていると言っても過言でないくらい重要な問題が記述されているのである。
細工帳1番の「延命地蔵菩薩」=願主上穂柏木の小町谷氏と、絶作「聖観自在菩薩」=上穂の小町谷治良兵衛= が共に現在の駒ケ根市上穂柏木の親戚筋に当たる小町谷家になぜ関わっているのか。なぜ500mと離れていない場所に、記述の初めと終わり(絶作)があるのか。その答えは、細工帳40番「延命地蔵大菩薩」=中沢伊奈村大蔵寺=までの大方が、上伊那郡宮田村から中川村田嶋までの伊南地域に貞治によって造立され残された石仏群なのである。貞治が石仏師として行動する以前から、この地域は、守屋家先祖(曾祖父・祖父・父) の石仏造立の地盤であった。そして、細工帳の終わりの所に記述がある「三百三拾三体」の彫造数も、祖父貞七が達成したことに由来した目標であった。
これらの事象について本文にて解説しようと思う。貞治は、先祖の仕事場を頼りに初期の彫造を開始したのだ。
『伊那路』の特集号のテーマは、当会で特に重要と考える後世に伝えたい「上伊那の自然・歴史・考古・民俗・地理・芸術・芸能・人物・古文書」です。

![]()

![]()
![]()