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(1)貞治以後に活躍した渋谷藤兵衛

 私は小学6年生の幼少期に、駒ケ根郷土研究会の会員であった。会員のほとんどが70歳以上の年輩の方々であり、中には第2代駒ケ根市長であられた北原名田造氏もおられ、市長退任後は会長として会員をまとめておられた。部長には日本画家の佐藤雪洞先生、植物学の木下義男先生、郷土史家の宮下一郎先生など、郷土学の大家の先生が大勢おられ、10歳の年端も行かない自分にとって場違いの会に入会したと後悔した。しかし思い直して、入会を勧めてくださった下村忠比古先生の後をついて勉強させていただいた。この会も現在はほとんどの方々が亡くなられ、新たなメンバーにて郷土研究「友の会」と して再スタートしている。少年時代に面白半分で入会した研究会ではあったが、大変貴重な体験をし、郷土を知り、郷土愛を育む大事な時期であったと、今にして思う。そしてこの時期に「守屋貞治」という石工のことを知るきっかけを持ったのであった。昭和37年のことである。
 昭和41年の『伊那路』11月号誌上において、宮下一郎氏は「守屋貞治千手観音像」を発表している。この論考執筆の前段として、駒ケ根市・宮田村の貞治仏の現地調査をする過程にて、2点の貞治仏類似の石仏に出合っている。駒ケ根郷土研究会歴史部開催による会合の折、宮下一郎氏が、貞治仏について言及。「最近貞治仏と思われる石仏が2体みつかった」 というもので、1点は、駒ケ根市中沢に所在する蔵澤寺本堂裏の庭園内にある「聖観音菩薩像」であり、もう1点は、上伊那郡宮田村田中にある「子安観音」であることを後日知った。その場は、検討を要する石仏であるとの認識であったが、数年後の現地見学にて、貞治の一番弟子の渋谷藤兵衛の彫造と確認されたのである。お顔の造形は貞治作によく似ているが、全体像からは別の作者と判断される。繊細で出来は良いが、どことなく重みがない像容なのだ。貞治仏はどしっとした重量感を持つ彫造なのである。「聖観音菩薩」は坐像で文政初年ごろの作と推定され、「子安観音像」も文政2年の作であり、ちょうどこのころ、甲斐の海岸寺で百躰観音造立に着手した時期に当たり、貞治に代わって弟子の藤兵衛が彫造したと思われる。なぜなら貞治作 似せて作っているからだ。貞治は、天保3年10月19日に68歳にて亡くなっている。天保3年以後に師匠の貞治に代わって彫造した石仏が、駒ケ根市東伊那善福寺参道と、飯島町本郷西岸寺の参道入口手前にある。この飯島町本郷の石仏は、一見して貞治作と見間違う「地蔵尊坐像」で、筆者が『伊那谷の石仏Ⅰ』にて貞治仏として紹介した「比丘尼千成供養塔と」である。当時は、貞治の新資料を発掘推進した時期でもあって、検討期間も持たず、即貞治作と勘違いをしてしまった石仏である。善福寺には貞治の石仏が4体あることで知られた寺である。参道入口に四角柱の石碑があって、正面に「清浄閣」、側面に「南無地蔵大菩薩」と陰刻している。「地」の文字が逆台形に刻まれた特徴ある字形で、諏訪温泉寺の願王和尚の文字と一目で分かる。これと同じ「地蔵尊」と陰刻した文字碑が、木曽郡上松町の玉林院の門前にもあり、貞治亡き後の天保年間に渋谷藤兵衛が彫造したことが推察される。なお、玉林院の門前には、「子安観音」と「馬頭観世音菩薩」があり、貞治作と見違うほどの彫技の優れた石仏があるが、3体いずれも石工藤兵衛と認定される。駒ケ根市東伊那善福寺の参道入口に立つ「清浄閣」文字碑も併せて渋谷藤兵衛作と私は認定したい。本来は貞治に彫造依頼したものであったが、貞治死亡のため弟子の藤兵衛が彫造したものであった。



1. はじめに | (2)細工帳と現地貞治仏の照合
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