(7)伊南の貞治仏三つの疑問
③貞治仏が飯島町にない理由について
貞治仏が宮田村に7体、中川村に4体と彫造している のに、なぜか貞治は飯島町にて仕事をしていないのだ。 これには特別な訳があるのではないかと考え、調査をし た結果、貞七が助手としていた「飯島石工A」( 仮称)の存在が浮上してきたのであった。彼の石仏作品は、貞 七作品の特徴が一部に残るもので、なかなかの彫技のも のである。代表作として光前寺の笠塔婆四面仏を挙げる ことができる。これと同時期に彫造した飯島町南蓮台場 の六地蔵も文化初年の作で、丸顔の地蔵の全体をしっか りと彫っている。文化3年作の駒ケ根市南割円通庵の舟 形光背の地蔵も共通の作風を示すもので、文化元〜3年 の間、光前寺とその周辺、飯島町にて仕事をしているのである。
石仏調査と並行し守屋家の家系調査を推進する過程に て、塩供守屋家墓地から新たに3人の存在が浮上したの であった。守屋家の菩提寺である高遠桂泉院の過去帳は すでに灰と化しているから、最後の手段として墓地調査 に踏み切ったのであった。そして「定七」 安永2年没、 「傳三郎」 文化5年没、「玄順」 文政6年没が確認されて、 次第に守屋家石工の全体像が見えてきたのであった。

『高遠石工―石匠列伝』 の第1回守屋家系調査では、 定七と傳三郎を貞治の兄2人と推定したのであったが、 守谷家現当主の守谷基弘氏より「玄順は、貞治の上の兄 であって、高遠の町医者であった」 と聞かされてから、 「定七」「 傳三郎」 は守屋貞七の次男と三男であると考え られ、孫兵衛と兄弟であり、そして3人は、父の貞七か ら修業を受けた石工であったと考えるに至ったのである。 貞七の彫像石仏の周りには、地域を区分した三者三様の 石仏が常にまとわりつくがごとく見いだされるのである。 その中で彫造年代が符合する石工として、前述の「飯島 石工A」 は、貞七の三男「傳三郎」 であることが分かっ てきたのである。定七、傳三郎の石工としての実態は、 現在調査中である。近い将来発表したいと考えている。 石仏には死者の没年や供養年が刻まれている。したがっ て、石工の死亡時より新しい年号が入ったものがあれば、 それは石仏が他者の作であることを示しているのであっ て、膨大な石仏調査を実施してのみ石工確認が終了とな るのである。定七、傳三郎が石工であったかどうかの確 定は、いま少し時間が必要である。研究途中での推論は 極力避けなければいけないが、貞治仏の飯島町にない理 由は、叔父の傳三郎に対する遠慮が絡んでいると想像も できる。だがそれよりも傳三郎の技術の確かさによって、 貞治が入り込む余地などなかったのが本当の理由であっ たと思う。天明2年、5年と、父孫兵衛と祖父貞七が立て続けに死去して、前途を失いかけた貞治は、叔父の傳 三郎に頼ったのではなかろうか。今後の研究課題であろ う。なお、祖父貞七の石仏調査も続行中である。写真図 版掲載の石仏は、今年度新たに発見した石仏である。貞 七彫造の石仏は、今現在250体である。
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