守屋貞治の地蔵尊像を観賞・観察すると、初期から晩年に至る間に少しずつ変化していることが分かる。特に文化9年を境に大きく変化することが読み取れる。貞治自身による心身の成熟と、石工としての研鑚によるところが大きいと思われるが、ただそれだけではないような気がする。長年石工を続けていると、人々との間に親近感が生まれ、身近に接した人の死に際しては、墓石彫造においては精一杯の努力は惜しまなかったと思う。そして石仏研鑚において常に研究を積み重ねていたものであろう。では、貞治作による尼僧面立ち表現の事例を見てみよう。
平成7年、私は駒ケ根市東伊那にある善福寺を訪ねた。前々から善福寺裏山にある西国三十三観音の見学は果たしていたが、堂内にある小型延命地蔵をぜひとも鑑賞したいと思い、前日ご住職にお願いしていたのであった。お堂の本尊前の右下に小さなお地蔵様が置いてある。薄暗いため住職がスタンド照明を持ってきてくださった。そして、照らし出された小地蔵のお顔がなんとかわいらしいことか。その時の印象は、この地蔵は女性の面立ちをしていると直感的に思ったものである。いわゆる「尼僧のお顔立ち」であると感じたのであった。後日そう感じた理由を考えた結果、二つの表現に思い当たったのである。
1全身が小さく、そして丸顔である。
2丸顔の中央の眉間が幅広である。
地蔵のお顔が従来見てきた石仏と決定的に違うのは、「眉間が幅広」の仕様の違いが、女性的に見えたということだと考えたのであった。そして、貞治が尼僧表現にこだわった背景についての推理を働かせてみたいと思う。
この小型延命地蔵尊は、元は東伊那の光福寺にあったが、廃寺となり無住となったため、善福寺に移管されたという。貞治が石工として活躍していたころ、光福寺は尼寺ではなかったか。貞治が高遠塩供と伊南方面への往復の途中尼寺に立ち寄り、住職に世話になったのではなかろうか。高齢で死去した比丘尼のため菩提を弔おうと無償で彫造したのではなかろうか。細工帳に記載がないのはそのためであろう。石仏がすすけているのは、長い間本尊と同じ須弥壇上に仏と同様にまつられていたためであったろう。菩薩像は、両性中間を表すとされるが、前記の経緯から尼僧の面影を貞治が表現したのだろう。
二つ目の事例については、高遠建福寺にある石仏で、石仏研究家の竹入弘元先生が「一葉地蔵大菩薩」であると推理している延命地蔵尊像である。像容が先記した小型延命地蔵と類似のもので、筆者は同じく守屋貞治作と考えているお地蔵様である。この時の見学記を次に記す。
毎年開催されている「上伊那郷土研究交流の集い」が、文化財が豊富に存在する高遠町にて開催される運びとなり、平成20年秋の開催となった。第8回目の事業の下見を兼ねて、石造文化財を担当・講演する竹入先生に誘われ同行させていただいた。建福寺庫裏と蔵との間に坪庭があり、そのイチイの木の根元に半跏像の延命地蔵尊はあった。建福寺にて初めて見た石仏なのに、以前にどこかで見たような親しみを感じた石仏であった。石仏の右側に石製の「標柱説明文」があって、竹入先生がこの内容文が誤記であることを力説されたことを思い出す。表記は次のごとく刻字されている。
「延命地蔵大菩薩守屋貞治作願主鉾持町藤源、建福寺へ奉納する。文政年代、五十歳代彫像」。この説明にある願主鉾持町「藤源」の石仏は、木曽郡楢川村奈良井の長泉寺にあって、建福寺石仏は一葉地蔵であるという。
私も建福寺の裏庭にある延命地蔵は、竹入先生の判断が正しいと思う。帰り際に竹入先生から、この地蔵尊の作者の質問があった。私は次のようにお答えしたことを覚えている。「この地蔵は一般の貞治仏と異なり、女性的である。眉間が幅広のため女性特有の表情を示している。作風は違うが貞治仏の一形態ではないか」というような話をしたと思う。後日先生は『伊那路』に「建福寺とその周辺の石造文化財」に詳しく記述されている。だが、作者が守屋貞治か渋谷藤兵衛かは、断定は避けておられる。作風から貞治作とは思われないとしている。なお、一葉地蔵の「一葉」の名称の問題に触れ「一葉観音はあるが、一葉地蔵とはどういう地蔵か、類例を見ない」とされた。
私は「一葉」は、女性的な名前とみなし、尼僧または鉾持村伊藤氏と縁ある婦人の名前ではないかと思う。一葉は家族ではないと思う。身内や家族であるならば、伊藤家の墓地に墓石を建立するからだ。寺の庭園内の一隅にあること自体、謎が多い石仏であるといえるであろう。
三つ目の事例は、中川村田島の理兵衛墓地入口にある「日限り地蔵」と呼んでいる小型延命地蔵立像である。
この場所には尼寺があって、近隣の主婦を集めて念仏講を組織していたとされる。なおこの延命地蔵尊は、文化9年に造立した向かいの佉羅陀山地蔵菩薩彫造後に、続いて彫造したとされ、当時の松村家当主理兵衛忠良が、貞治に彫造させたと考える。法名「妙果大姉」は忠良の妻であったと考えられ、早世したと思われる忠良の妻は、生前信仰心厚く頻繁に尼寺に出入りしていたものであったろう。貞治は妙果大姉の面影を写したものか、それとも女性が集まる尼寺であるため、尼僧の面立ちを地蔵に表したとした方が正しいかもしれない。
以上、三つの地蔵の面立ち表現は、貞治の地蔵尊の作風の一形態として把握する。そしてこの地蔵の作者は、私が言うまでもなく貞治仏であることを「石仏菩薩細工」の中で明記しているのである。一葉地蔵も日限り地蔵にしても、貞治自らが記録しているのである。であるから、渋谷藤兵衛であるはずはないのであって、他者作者を当てる石仏研究者は、石仏菩薩細工に貞治が記述した事実の誤りについて、その理由を示さなければならない。
それにしても、地蔵のお顔がかわいらしく、全ての願いをかなえてくれそうな優しい地蔵様である。

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