(3)伊南の貞治仏50体
4体の新発見石仏は、それぞれの事情があって貞治は「石仏菩薩細工」帳に記載しなかったのではないかと思う。石仏彫造依頼者と懇意であったためなど、何らかの理由で無報酬仕事ではなかったかと考えられるのである。 駒ケ根市赤穂北割「塩木休み堂」は、私の守屋貞治研究の原点となる重要な場所である。
細工帳に記載はない が、松崎文徳の妻の死(26歳で早世)により造立された如意輪観音と、その脇にある小さな舟形光背に彫られた聖観音が「悲しい石仏物語」としてつづられ『駒ケ根の貞治仏』に記した。当時文徳は父親と共に造園業に従事していたため、石材の調達と、この場所で上在(赤穂北割〜南割)での石仏彫造の作業小屋を設けていたため、松崎家とはごく親しい間柄となり、香典代わりに無報酬にて彫造を行ったのだろう。貞治の義理堅い人柄がしのばれる。
確認調査や写真撮影のため、塩木休み堂に幾度となく足を運ぶうちに「守屋家石工三代」 につながる祖父貞七の馬頭観世音石仏に出合えたのであった。前記2体の貞治の石仏のわずか10mと離れていない所にあるその石仏は、舟形光背に刻まれた小さな馬頭観音像ではあったが、ただ者ではない石工作と感知した私は、その後200体以上に及ぶ貞七作品と出合うこととなる。駒ケ根市赤穂小町屋「如来寺の三斗名号塔」と、中川村田島理兵衛墓地入口にある「青面金剛像」は、この貞七作品と出合わなければ、貞治作であることを見過ごした石碑・石仏であったと思う。詳細は後述したいと思う。
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