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貞七の石仏*馬頭観音 飯島町田切関の地蔵堂

貞七*馬頭観音
舟形光背半肉彫・60・文化3 年
飯島町田切 関の地蔵堂

名工伝 守屋貞治 守屋家石工三代百年の足跡*田中清文より
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(4)貞治の石工歴3段階変遷 ①青面金剛像造立の由緒

 この石仏造立の由緒について、本体である舟形光背の裏面に陰刻されているから理解される。次のごとくである。


「寳暦年中妙英大姉建立處寛政四子七月為荒水流亡矣于妙果大姉繼志願再建之者也乃至法界平等利益」

 意訳すると、宝暦年中に法名「妙英大姉」のときに青面金剛像を像立(貞七が彫刻)した。寛政4年7月に前沢川の洪水により流失したため、その後「妙果大姉」が再建(このときの石工は貞治)を果たしたという意味であろう。
 恐らく、法名の大姉は先々代松村理兵衛父・子の奥様と考えられ「妙果大姉」が法名となっているところを勘案すると、「青面金剛」像の彫像は、寛政末から享和年間中と推察されるのである。そして、飯島町七久保慈福院にある貞七作青面金剛像と同型であろう石仏を、再建を兼ねて守屋貞治が無報酬にて造立したであろう。彫造依頼をした先代理兵衛の妻は、この時すでに亡くなっていたのである。

 

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