文政年間以降、貞治の一番弟子の渋谷藤兵衛が、貞治に代わって石仏彫造したことを前項で述べた。そして、天保3年の貞治亡き後、伊那谷伊南の寺院にも多くの藤兵衛作の石仏を見いだすことも論述した。これらの研究結果は、初期の調査での判断ミスを訂正するもので、15年の歳月を経て認識できたのであった。したがって、貞治の「石仏菩薩細工」に記載なき類似石仏に対しては、よほどの注意・検討が重要であると考えられるのである。
そこで、細工帳と現地貞治仏の再照合を試みようとするものである。正確な確認調査を行うことによって、貞治の石仏彫造歴を把握し、貞治にとって伊那谷の伊南地域とはどのような土地であったのかを探ろうとした。
石仏菩薩細工帳の記録を概観してみると、336体のうち半数以上の190体が、甲斐海岸寺百体観音、諏訪温泉寺の西国巡礼観音の23体、高遠建福寺の西国三十三カ所観音、土岐市原村禅躰寺の西国三十三所観音で、禅躰寺の三十三観音は、貞治の初期の彫造である。天明4年に着手して天明5、6年ごろには完成したものであろう。修業期に当たる貞治が直接彫造依頼を受けたものではなく、祖父の貞七が何らかの伝により依頼されたものを、病弱を理由に孫の貞治が彫造したのであろう(このことは後に詳述する)。次に手掛けたのは、高遠町建福寺の三十三観音で、4カ所の西国三十三所観音のうち、一番出来が良く、石材も青石の硬質岩石より彫り出しているため、細工も丹念で秀作ぞろいである。次が海岸寺の百体観音彫造である。寺の裏山にある軟質石材より百体を彫り出している。渋谷藤兵衛ほか数人の石工が助手 として働いたといわれ、石材の軟質もあって文化13年〜文政7年の8年間で百体観音を完成させたとされる。最後の三十三所観音造立は、諏訪の温泉寺の彫造作品とされ、晩年の時期に当たり、貞治は眼病を患い、そのために10体少ない23体彫造と、細工帳に記載している。観音のお顔がどれも藤兵衛の特徴を示すものである。天保2年9月、高齢に差し掛かり眼病を患っていた貞治は、余命が少ないことを悟り、今までの石工仕事の成果と経過を記録にとどめることを思い立ち「石仏菩薩細工」を作成したのであろう。
この温泉寺にて造立した西国三十三所観音彫造をきっかけに、余命を悟った貞治は、文政11年の勢州河崎(三重県伊勢市) 以降2度目の旅を実施している。温泉寺の願王和尚との約束を果たす旅であった。このときの石仏は、細工帳334体目の「延命地蔵大菩薩」(勢州山田河崎)であり、願主野村鶴子と陰刻の金剛証寺の地蔵様である。同じ野村氏発願の延命地蔵尊は行方知れずの石仏となっているが、細工帳では335体目に記載がある。 時に没年の天保3年春のことである。そして絶作となった上穂柏木小町谷治良兵衛の「聖観自在菩薩」 造立へと連なるのであった。温泉寺での三十三観音完成以後の3体は、存命中に完成造立しなければならない貞治の悲願であったと思われるのである。
貞治の石仏菩薩細工を見て気づくのは、温泉寺願王和尚との巡歴の旅の中で彫造した地蔵尊の多さであろう。主に、臨済宗妙心寺派の寺院に造立されている石仏群であり、比較的大型の石仏彫造となっている。まずは遠方への苦労であろう。細工帳の記述から検証すると、願王和尚と共に旅に同行し、現地寺院にて石仏造立を果たしたのは50〜60カ所は下らぬであろう。また、願王の要望で単身で現地に出向いたこともあったであろうから、総数100体ぐらいは願王との関連の上に彫造・造立したことが推察される。ところで願王との縁ができたのはい つのことかと興味が湧く。推理を働かせると次の事象が気に掛かる。
願王和尚は元は武州出身で、後に諏訪温泉寺の住職となったという。前項で土岐禅躰寺の三十三観音の彫造依頼のことに触れたが、この彫造依頼の主は「願王和尚」ではなかったかと考えるのである。禅躰寺は臨済宗妙心寺派の寺であること、禅躰寺近くの「正源寺」の延命地蔵尊造立(文政4年4月)に関わる事例があることなどが根拠である。祖父の貞七に代わって貞治が彫造したことが、願王和尚との縁ができた最初ではなかったか。したがって、貞治の石工歴の始めから願王が亡くなるまでの45年間が、苦しくも楽しい仏縁の旅であったと思う。
ここまで貞治の細工帳を頼りに290体あまりの石仏を巡訪したが、旅の終わりに思うことがある。それは、伊勢河崎の重要性である。守屋家の文献に記述がある「先祖との縁ある場所」が河崎であり、石仏造立の最終地点が勢州河崎であったのも理由があってのことと思う。
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