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(3)伊南の貞治仏50体

 平成7年の守屋貞治石仏探訪の旅で、最終目的地に選んだのは伊勢河崎であった。長野県内で貞治仏の現地見学を重ねるうちに、貞治石工修業の問題に関心を寄せるようになり、修業地、師匠は誰かと興味が湧いてきた。 伊勢路の旅での成果は、何も得るものがなかったが、代わりに、200年以上も経過した現在に至ってもなお続く「羅陀山地蔵大菩薩」の前で合掌する、祈りの姿の伊勢志摩の村人に感動を覚えた。そして、地蔵様は私にそっと語りかけるのであった。「足元を見なさい。きっと答えが見つかるでしょう。」地蔵尊を代弁者として貞治が教えているように感じられた。信州に帰り、翌月から伊南の貞治仏の再調査を開始したのである。この伊勢路紀行が契機となって、貞治の師匠の謎が明確になったのである。

 さていよいよここからが本題である。守屋貞治の石工仕事の原点である土地、石工巡歴で原点回帰する重要なる場所が、信州伊那谷の「伊南」(上伊那郡宮田村・駒ケ根市・飯島町・中川村)地域であったのであろう。 貞治仏の再度確認調査の結果、北の宮田村(一部西春近)で7体、駒ケ根市で36体、飯島町1体、中川村(一 部松川町瑞応寺)で6体の総計50体が確認されたのである。中には「石仏菩薩細工」には記載があるが現存ない「大日如来」(駒ヶ嶽ニ建、願主下モ町木綿屋)や、「不動明王」(片桐村願主竜泉寺)が、現地調査の結果、 寛政12年の庚申年に造立された「庚申」塔文字碑であったりと、貞治の記述間違いも調査により訂正されるに至ったのである。なお細工帳には記載がないが、貞治作に間違いない彫造作品として、善福寺本堂内安置の「地蔵尊坐像」と、松川町上片桐瑞応寺の「延命地蔵尊」がある。この他にも駒ケ根市にて3体、中川村田島にて1体の計6体の新発見石仏が追加され、総数50体となったのである。西国三十三観音などなく、単体数が最多となった伊那谷の「伊南」という地域は、貞治にとって石工仕事の上で特別な土地といえるのではなかろうか。





 4体の新発見石仏は、それぞれの事情があって貞治は「石仏菩薩細工」帳に記載しなかったのではないかと思う。石仏彫造依頼者と懇意であったためなど、何らかの理由で無報酬仕事ではなかったかと考えられるのである。 駒ケ根市赤穂北割「塩木休み堂」は、私の守屋貞治研究の原点となる重要な場所である。


細工帳に記載はない が、松崎文徳の妻の死(26歳で早世)により造立された如意輪観音と、その脇にある小さな舟形光背に彫られた聖観音が「悲しい石仏物語」としてつづられ『駒ケ根の貞治仏』に記した。当時文徳は父親と共に造園業に従事していたため、石材の調達と、この場所で上在(赤穂北割〜南割)での石仏彫造の作業小屋を設けていたため、松崎家とはごく親しい間柄となり、香典代わりに無報酬にて彫造を行ったのだろう。貞治の義理堅い人柄がしのばれる。
 確認調査や写真撮影のため、塩木休み堂に幾度となく足を運ぶうちに「守屋家石工三代」 につながる祖父貞七の馬頭観世音石仏に出合えたのであった。前記2体の貞治の石仏のわずか10mと離れていない所にあるその石仏は、舟形光背に刻まれた小さな馬頭観音像ではあったが、ただ者ではない石工作と感知した私は、その後200体以上に及ぶ貞七作品と出合うこととなる。駒ケ根市赤穂小町屋「如来寺の三斗名号塔」と、中川村田島理兵衛墓地入口にある「青面金剛像」は、この貞七作品と出合わなければ、貞治作であることを見過ごした石碑・石仏であったと思う。詳細は後述したいと思う。

(2)細工帳と現地貞治仏の照合 | (4)貞治の石工歴3段階変遷
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