守屋貞治の生涯 68 年のうち、石工として活躍したのは 約 50 年間と推察される。石仏彫造目標の「三百三拾三体」 も達成し、石仏菩薩細工帳に記載できたのは幸福な人生 であっただろう。家族との死別など幾度となく経験した であろうが、そのたびに仏心と石仏彫造に力がこもった であろうことが想像される。歳を重ねるほどに、石仏が 理想の形に完成度を増す過程からも感知されるのである。 そんな石工人生の変遷を、修業期・研鑚期・円熟期の3 段階の変化にて把握したいと考える。貞治はどのような 形態を見せるのか、推移をたどってみよう。
貞治の石工歴研究で、特に注目したいのは、修業期と 研鑚期についてである。先学の研究では、石工の本場で あろう関西方面にて修業をしたとされていたものが、近 年の調査・研究によって、祖父貞七と父孫兵衛も石工で あったことなど考え合わせると、家族のうちの両者か、 またはそのうちの一人から、石工の手解きを受けたと考 えるのがごく自然だろう。私は、石工技術の初歩を学ん だのは、父の孫兵衛であったと思う。なぜならば祖父の 貞七は、年の半分も家に帰らないほど石工仕事に専念し ていたと考えるからだ。だが本当の意味での師匠は、祖 父の貞七であったと思う。直接石仏彫造上の教えを受け ていないにしても、修業期の後半から研鑚期にかけて、 伊南の各地に残る貞七作品を、自らの仕事の合間に見て 回って生かしているからだ。石仏作品の出来以上に、貞 七の彫造に掛ける意気込みを感じ取ったと思う。私は、 実地に伊南の地に残された両者の石仏を対比して、その ことがありありと見えてくるのであった。父の孫兵衛が亡くなる2年前ころより石工の初歩(基礎) を学び、貞 治の石仏第1作目の如意輪観音彫刻へと連なったと考え る。守屋家墓域に残るその石仏が、孫兵衛と貞治との関 係を物語っているのである。如意輪観音の目元表現が、 孫兵衛の特徴を示しているのだ。
次の研鑚期の始まりをいつにするのかは、長い間決め かねていた。おおよそ寛政 12 年の庚申年の「庚申塔」 造 立のころと考えていたのだが、貞治の最初の庚申塔彫造 作と思われる安楽寺参道入口にある庚申塔文字碑は、そ の後に松川町上片桐の竜泉寺にもあることが、同形の文 字により確認されて「庚申塔」 文字碑は合わせて2体と なり、土岐市原村禅体寺の西国三十三観音など合わせ、 42 体となった。実はこのころ、中川村田島に生涯で唯一 「青面金剛」 像を彫造していることが近年確認された。 この青面金剛については、細工帳に記載のない無報酬で 彫造した石仏として前項で記したが、この石仏こそが、 貞治が研鑚期の始まりを宣言した記念碑的意味を含んだ 石仏造立であった。ここまで、石工歴 17 年の修業歳月が 流れている。
守屋家石工三代に連なる重要な場所が、中川村田島の 松村理兵衛墓地入口であり、先記した「青面金剛」 像と その左隣にある「 佉羅陀山地蔵菩薩」 造立に思いが込め られていた。貞治自身の彫造に掛ける意気込みを、祖父 貞七に誓う、とても意味ある場所であったと思う。守屋 貞治研究の重要地点であって、貞治と松村家の関係が読み取れる。なぜならば、研鑚期の始まりを宣言するかの ような、青面金剛と、円熟期の開始を告げるかのような 佉羅陀山地蔵菩薩の2体の造立は、貞治と松村氏の創作 の意向が合致しないとあり得ないからだ。この考えに至っ た動機については、祖父貞七の最晩年である天明3年記 銘の延命地蔵尊の等身大に彫造された立派な作品を、天 竜川対岸葛北の浄蓮寺境内より見出したことに由来する。 貞七の絶作と思われるこの作品を、感動を覚えて鑑賞し たであろう貞治は、この浄蓮寺より西に1キロメートル 離れた松村家墓地の一隅に、前記2体の石仏を造立した と考えたい。

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