(4)貞治の石工歴3段階変遷
①青面金剛像造立の由緒
この石仏造立の由緒について、本体である舟形光背の裏面に陰刻されているから理解される。次のごとくである。
「寳暦年中妙英大姉建立處寛政四子七月為荒水流亡矣于妙果大姉繼志願再建之者也乃至法界平等利益」
意訳すると、宝暦年中に法名「妙英大姉」のときに青面金剛像を像立(貞七が彫刻)した。寛政4年7月に前沢川の洪水により流失したため、その後「妙果大姉」が再建(このときの石工は貞治)を果たしたという意味であろう。
恐らく、法名の大姉は先々代松村理兵衛父・子の奥様と考えられ「妙果大姉」が法名となっているところを勘案すると、「青面金剛」像の彫像は、寛政末から享和年間中と推察されるのである。そして、飯島町七久保慈福院にある貞七作青面金剛像と同型であろう石仏を、再建を兼ねて守屋貞治が無報酬にて造立したであろう。彫造依頼をした先代理兵衛の妻は、この時すでに亡くなっていたのである。
以上の仮説を現実のものとするためには、確実に守屋貞治の制作であることを実証しなければ無意味であろう。そこで、私が貞治作であることを証明する3点について論証したいと思う。
まず第一に、伊南全域の石仏作品を見て回って言えることは、当時この青面金剛像の出来同等の石工は、守屋貞治以外には存在しないということである。それほど彫技が優れていて、まずはこの点に着目した。
第二点目、この石仏は、舟形光背に半肉彫りにて青面金剛を彫り出している。したがって舟形光背に注目すべきである。石工それぞれが独自のスタイルを持って舟形の造形を創作しているのである。貞治の研鑚期初期に当たる宮田村〜西春近村に残る西国三十三観音の舟形光背と比較すると、同型であることが分かり、完全に一致する。
第三点目は青面金剛像の造形の細部についてである。まず左手に持つ「宝輪」の手首表現が、貞治仏の他の彫刻作品と共通性を示す。親指と小指との間に宝輪を乗せている。これは、貞治作である決め手であり、貞七作とも異なる表現である。貞七作青面金剛では、左手首先を側面表現にて表し、手の平に乗る宝輪を作出している。他の石工それぞれが、独自の表現にて彫像しているのだ。
次に青面金剛像の足の踏ん張り表現を見てみよう。
天ノ邪鬼の悪鬼上の足の踏み付け姿勢と共通性を見るのは、駒ケ根市赤穂小町屋に所在する「不動明王」である。互いに憤怒の姿を示す石仏であるため、二足の表現に力がこもっている。左足に軸足を置いた表現形状がよく似ている。間違いない守屋貞治の彫造と確信する。
姑が建立した青面金剛が、前沢川の氾濫で消失したが、生前再建を常々語っていた妻の願いをかなえようとしたのが、夫の理兵衛である。前作が祖父の貞七彫造であったことを知った貞治は、無償で再建を果たしたのであろう。そんな仕事ぶりに、理兵衛は先祖供養のための地蔵尊造立を貞治に持ち掛けたと推察する。その約束は、貞治が研鑚を積んだ文化9年まで待つことになるのであった。
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