トップ>特集号>守屋貞治特集>ネット限定特集「高遠石工守屋家三代百年の足跡」>名工伝守屋貞治守屋家石工三代百年の足跡*田中清文>②佉羅陀山地蔵菩薩の彫造

(4)貞治の石工歴3段階変遷
②佉羅陀山地蔵菩薩の彫造

 青面金剛彫造より12年たった文化9年、石工研鑚による彫造が、目標数のちょうど半分になったのを期に、佉羅陀山地蔵の彫造に取り掛かるのであった。167体目に当たるこの地蔵尊像は、石柱部に「衆善泰行・諸悪莫作」と2行に陰刻した大型石仏で、特に基礎石の基壇部には、前沢河川敷の自然巨石を利用したハスの葉を彫り出した見事な造形であり、背面には、生涯で2カ所に署名したうちの1体(他は伊勢市金剛証寺奥の院の334番目)の記念すべき石仏である。私は、この佉羅陀山地蔵菩薩をもって研鑚期の満了と、円熟期の始まりを指す重要な石仏造立と捉えている。
 貞治が松村家と縁ができたのには、光前寺の寂応和尚の紹介が最初であったと推察する。そんな事情から先学の研究では、この地蔵尊のお顔は「寂応をモデルに造形している」とされるが、筆者は、寂応和尚より数代前の光前寺中興開山「尊応そんのう」と考える。なぜならば、田島松村家は尊応が生まれた家であるからだ。そして光前寺には、尊応和尚の木彫坐像が存在しているからである。光前寺略年表の記述によると、文化6年「松村理兵衛が尊応和尚の木像を寄進する」とあり、3年後に貞治が彫像した「佉羅陀山地蔵菩薩」と時期がちょうど符合するのだ。貞治は、松村家先祖供養のための地蔵尊像造立に際し、「尊応」の面影を同時に表現したのではなかろうか。そして、伊南地域で唯一この石仏に記名した理由についても、石仏彫造に掛ける信念と気概を感ずるのである。その背景には、祖父貞七との関係が大きく関わっている。

(4)貞治の石工歴3段階変遷 ①青面金剛像造立の由緒 | (5)伊南のみに残る石仏表現
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