トップ>特集号>守屋貞治特集>ネット限定特集「高遠石工守屋家三代百年の足跡」>名工伝守屋貞治守屋家石工三代百年の足跡*田中清文>①中川村に見る自然石上に載る石仏

(6)祖父「貞七」との関係を示す貞治の石仏
①中川村に見る自然石上に載る石仏

 中川村における守屋貞七彫造石仏をくまなく調査したところ、石仏の基礎部である台座に、自然石または大石を設置して加工手間を省略している事例が見られた。これらは、基壇部を省略することにより、加工手間を省くと同時に少ない予算で造立することができ、地震などの震動にも強く「一石二鳥」の効果が得られるのである。この代表例として、竹ノ上(供養場)の如意輪観音は、基壇部に手間を掛けない分、予算以上の大きな如意輪観音に仕上がっていると思う。なお、自然石部分にも文字が陰刻されていて、自然石までもが一体となっているのである。次に紹介する事例を見た時、貞七と貞治との関係を察知したのであった。それは、中川村西小学校北側の荒井家墓地に見る、延享2年の命日が刻まれた小形地蔵尊は基壇部に自然石を置き、その上部に地蔵尊を載せている。これと同じ仕様の石仏が、わずか500メートルと離れていない新井家墓地にも見られるのである。この石仏は、新井家墓地内の北側の牧ケ原台地南壁に存在した自然石を台座に利用したもので、自然石の形状により荒井家の貞七作小形地蔵尊の台座支柱を、貞治がまねて彫造・造立したことが判断される。貞治の文化年間前半の作と推定され、これとほぼ同じころ彫造したと思われる、松川町上片桐瑞応寺の延命地蔵菩薩も、自然大石を台座にしたものであり、貞治の石仏彫造上の一連の流れが読み取れる。③掲載の石仏台座の大石は従来の原位置のものであり、現在では瑞応寺の山門を入った正面に移転されて、一回り小形の自然石上に載せてある。見学者の利便性などに配慮をされたと思われるが、貞治研究者にとっては、できるだけ元位置を保ってほしいものである。
 「中川村における自然石上に載る石仏」で、最後にたどり着くのは、何といっても田島の理兵衛墓地入口(新井墓地)にりんとして立ち尽くす「佉羅陀山地蔵菩薩」の像容であろう。前沢川河川敷に存在する自然石をじゃまものとせずに、石仏台座とするなどは、祖父から学んだ貞七の知恵を、孫の貞治が受け継いだものと考えるのである。
 天明7年から寛政11年まで、建福寺六地蔵尊(寛政4年造立)彫造を挟んだ12年間は、伊那谷伊南に造立され残された貞七作品を見て学んだ時期ではなかったか。

(6)祖父「貞七」との関係を示す貞治の石仏・貞七彫造石仏の所在範囲 |
(6)祖父「貞七」との関係を示す貞治の石仏 ②貞七の六斗名号塔から貞治の名号塔へ
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