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(6)祖父「貞七」との関係を示す貞治の石仏
②貞七の六斗名号塔から貞治の名号塔へ

 守屋貞治の祖父「貞七」は、伊那谷伊南に200体以上の石仏を彫造し現代に残している。内訳は石仏が丸彫り大型のものが約20体、丸彫りと舟形光背の中型のものが約80体、残りの110体は、花崗岩卵形石を縦に半分に分割し、舟形光背にしたものに、単純な石像を浮き彫りしている。他は、供養塔、名号塔、題目塔、宝篋印塔などの石塔類が約30基確認されている。なお、石灯籠や院主の墓石なども加えると相当数になると予測される。
 今回は、貞七彫造の石塔類について検討したいと思う。
 「貞七」の記名もなく、石仏と異なり何のつかみどころがない石塔類を、貞七作であるといえるのか。そもそも貞七は、石仏のみで石塔など彫造しなかったのではないかとする意見もあるだろう。しかしである。②に示した駒ケ根市赤穂羽場下の各種供養塔のうち、向かって左側の貞七作延命地蔵尊の隣の2基の「大乗妙典供養塔」「宝篋印塔」は、一分のすきもない見事な出来栄えで、貞七でなければ彫刻できない技術の上に完成造立している石造物である。
 貞七彫刻の石仏は、端整・優美でどれも彫りが深いことが共通項となっている。一方石塔においては、ゆがみがなく一分のすきもない造形で、陰刻した刻字にしても、深彫りのために200年以上も経過した現在に至っても判読が容易なのである。筆者が貞七作石塔類の目安としている駒ケ根市の古道「上穂うわぶ本線ほんせん」沿道の石造物を見てみよう。

沿道の守屋貞七作各種石塔(それぞれご当主が造立)

 写真①は、大法寺の題目塔である。日蓮宗独特のヒゲ題目と称する名号塔で「まんだら」ともいう。刻字には、前ぜん大だい光こう山ざん69世「日解」の謹書で、僧正81歳時の文字を拝借して守屋貞七が陰刻し、造立している。ヒゲ題目文字の陰刻に強弱をつけ見事に彫り出している。石材も立派なものであり、良質花崗岩などにより、中田切川産原石を使用していると思われる。貞七ならではであろう。
 写真③は、写真②の羽場の石塔と配置が同じ北村家(長福寺)墓地前の宝篋印塔と大乗妙典供養塔である。配列が逆にはなっているが、羽場小町谷家の吉永に負けじと、ご当主が造立したのであろう。当時の両家の間柄が推察できて面白い。宝篋印塔は彫技の素晴らしさから、守屋貞七作に間違いないものであろう。
 羽場下の上穂本線をなお南に行くと「十二天の森」に至る。この森の東端に北村家・小町谷家と並ぶ豪農の福沢家(西)に至る。福沢家(西)墓地前には、守屋貞治作の准胝観音が造立されていて、貞治仏見学コースでの必見の石仏となっている。写真④はそのすぐ脇にある「大乗妙典五千部五千部供養塔」で、切石を数段積み上げた基壇上に立っている。
 当初は貞七独特の刻字でないため、他者の作と思われたが、石塔そのものの造形が貞七彫造の特徴を示している点によって本人作と認定したい。文字はご当主の筆字をもとに守屋貞七が陰刻したものと考える。なお、造立年は左側面に「明和五年」の記銘があり、前記2基とほぼ同じころの彫造年が刻字されている。
 この明和5年より3年後の明和8年、飯島町田切追引の浄土宗「聖徳寺」に、巨大名号塔が貞七により造立された。駒ケ根の南端辻沢集落の中に上穂本線と伊那街道とが合流する地点があり、小町谷吉英が寄進した守屋貞治作不動明王が、光前寺道の道標として立っている。これより南に行くと馬住の原から中田切川への渡河点に至る。中田切川を渡ると田切集落に入る。街道沿いに関の地蔵堂があり、かつての関所の面影を今に残している。
 守屋貞七の石仏を求めて聖徳寺境内を調査したところ、貞七作品は見出されず、唯一寺院裏手の檀家墓地より、舟形光背に刻んだ小形地蔵尊1体が見出されたにすぎず、関の地蔵堂や追引の周辺など多数(約20体)の貞七作品が存在するのに境内に石仏がないのはなぜだろうと不思議に思っていた。


 あるテレビ番組に聖徳寺の「六斗名号塔」のことが放映された。飯島町郷土研究会副会長の川村正彦氏の長年の研究成果をもとに番組構成されたその映像は、筆者の興味を引き付けた。
 まず高さの問題で一級品であること。六斗名号塔は正確には4・73メートル当地方の名号塔の中でも随一である。
 2番目に書が誰が書いたかはっきりしていること。その書が京都の高僧のものであることなどである。
 3番目に重要なのは造立年が古いこと。名号塔の右側面に「明和八年」の造立年が刻まれていて古いものである。
 後日川村氏宅を訪問して詳細をお聞きしたところ、駒ケ根市羽場の小町谷武兵衛(吉永)が造立に関与していることが判明し、小町谷氏と貞七との関係などからして、聖徳寺の名号塔(六斗名号塔)の彫造者は、守屋貞七と推察されるのである。
 その後の調査によって六斗名号塔は、祖父貞七と貞治との関係に大きく関わっていることが次第に分かってきたのである。聖徳寺名号塔の裏面は、京都三条橋近くの壇王法林寺を興した「良妙」の書で、駒ケ根市安楽寺参道入口の名号塔も同じ書体であり、寛延4(1751)年の造立から、守屋貞七が20年後の明和8(1771)年に彫造したものであった。表面の名号は京都西光院浄土津の名僧「可円」の書で、表の刻字1字に米が1斗入ることから地域の人々に「六斗ろくと名みょう号ごう塔とう」と呼び親しまれた。
 深く陰刻した薬研彫りされたため一種独特な表情を醸し出している。平成11年3月30日、飯島町教育委員会は町指定文化財(第37号)として保護・保全をしている。掲載した左側の名号塔は、駒ケ根市小町屋の如来寺門前にある文化14年造立の「如来寺の三斗名号塔」である。聖徳寺六斗名号塔の半分の大きさから筆者が名付けた造語であり、2文字で1斗、合わせて3斗で6文字ということで俗称した。恐らく貞治は聖徳寺名号塔は祖父の作と知っていて、如来寺名号塔彫造の際半分の大きさにしたものと考えられる。貞治の謙虚さなのか、石材の入手困難のためかは定かでないが、とにかく建植には大変であったと想像する。寺院檀徒総動員で造立したのであろう。貞七も貞治も力量があったから成し得た仕事である。


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