伊南地域に存在する貞治の石仏50体を検証すると、幾つかの疑問と新たな事実が垣間見える。土岐禅躰寺三十三観音彫像以来の12年の石仏彫造での空白期は、自身の技術のなさを思い知った貞治が、祖父貞七・父孫兵衛の石仏を見て研究していた時期ではなかったかと考えられる。
以前は発注依頼がなかったためと、単純に思い込んでいたのであるが、徐々に謎の糸口が見えてきたのである。それは、文化5年まで石工として活躍していた祖父貞七の三男「傳三郎」の存在であり、傳三郎のおてこをしながら、先代の石仏作品を研究していたものと思われる。
貞治が実質的に石仏彫像に取り掛かるのは、寛政12年の庚申年からのことであり、庚申塔3体以後には「宮田の西国三十三観音」の一部の観音彫像であり、享和年間中の3年間に宮田・西春近の寺院とその周辺に造立している。この西国巡礼観音33体の約8割方を請け元の有賀鶴蔵が彫刻しているものと推察される。貞治仏6体は、舟形光背の先端部に□番の刻字があることにより「宮田西国三十三観音」のうちの一部分を貞治が分担していると推測される。
貞治48歳の文化9年、貞治仏全作品の中間点ごろになると、地蔵尊のお顔の表現に変化が見られるようになってくる。従来の面長のお顔立ちである男性的な頭部の他に、丸顔で眉間が幅広の小型地蔵尊が新たに表出するようになる。前作が男性的なのに対し、後者は女性的であり、いわば尼僧の面立ちである。これらの違いに対して「貞治作ではなく、渋谷藤兵衛作である」と結論づける研究者もいるのであるが、筆者は双方ともに貞治作であると考えている。尼僧形状の地蔵様は、安置された寺が尼寺であったり、願主の要望が女性の墓石であったりした場合に編み出された作風であって、貞治の思惑が見て取れる。
以下、3項目について順次検討してみたいと思う。
←(6)祖父「貞七」との関係を示す貞治の石仏 ②貞七の六斗名号塔から貞治の名号塔へ
(7)伊南の貞治仏三つの疑問
①宮田村の西国三十三観音造立について→
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『伊那路』の特集号のテーマは、当会で特に重要と考える後世に伝えたい「上伊那の自然・歴史・考古・民俗・地理・芸術・芸能・人物・古文書」です。

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