土岐禅躰寺西国三十三観音と正源寺の観音2体造立など、天明4・5年の最初の彫像を経て、高遠建福寺での六地蔵尊と、山門手前石段左の延命地蔵の大型立像を寛政年代前半(寛政4〜6年)に彫造・造立しているのであるが、貞治持ち前の品格と優美さは備わってはいない。 石仏作品に変化が表れるのは、寛政12年に至ってからで、上穂南町村中「庚申塔」文字碑と、上赤須福沢家墓地にある延命地蔵尊彫像が始まりであり、上片桐村竜泉寺の「庚申」文字碑と、続いて中川村田島理兵衛墓地入口に「青面金剛」を彫造している。これらは、いずれも駒ケ根市上穂の光前寺住職であった寂応和尚が仲介役となり、貞治に石仏彫造の指示を出したと想像される。
寂応の生誕地は上片桐の宿場の中ほどにあり、田島の松村理兵衛とも近しい間柄であったと思う。郷里の先達「尊応」和尚の生まれた家であり、尊応住職代に雨乞い獅子舞に使用された「青獅子」の寄進が、光前寺文書に記録があるなど、尊応との関わりが深い田島松村家が寄進を申し出たと考えられるのである。その後の寂応の時代に守屋貞治を紹介し「青面金剛」像の彫像となったと考える。この経過については「名工伝守屋貞治(2)に詳述した。宮田村の西国三十三観音のうち、貞治が手掛けた6体は、青面金剛造立を前後した享和元年から始まった。
現存する石仏群は、調査の結果18体が各地寺院境内の参道周辺に散在している。舟形光背の頂部に□番の刻字が見られ、西国三十三所観音として造立したことが推定される。大多数を西春近村表木の石工である「有賀鶴蔵」が彫造しているところから、この事業の請け元と推察され、約8割方を有賀鶴蔵がこなし、守屋貞治は6体を分担している。もう一人鶴蔵の弟子と思われる石工作品が諏訪形の法正寺参道より2点見いだされている。全体の6割残存の現状では推測の域を出ないが、不明の4割の石仏も有賀鶴蔵の彫造と思われるのである。
石仏全体を観察すると、鶴蔵の彫技は彫り込みが浅く締まりがない。石仏作品としては今一歩というところが、逆に有賀鶴蔵らしさといえるだろう。一方の貞治仏は細部まで彫刻していて、観音のお顔も品格があって優美である。貞治の技術を認めた有賀鶴蔵は、貞治の表現方法をまねて彫刻している。如意輪観音の右手首を顎にあてがうしぐさなどは、その代表例である。貞治が西国三十三観音造立に参加できたのは、寂応の口添えがあったからと思う。寂応は寛政4年に光前寺に入山している。8年後の寛政12年ごろには、宮田村の有力者や寺院住職とも顔見知りとなり、石工の貞治を紹介したものと考える。



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