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貞七の石仏*如意輪観音 宮田村全昌寺

貞七*如意輪観音
舟形光背半肉彫・60
宮田村全昌寺

名工伝 守屋貞治 守屋家石工三代百年の足跡*田中清文より
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はじめに

 曽根原氏が探訪した「貞治の石仏」調査と同様の旅を 実施して思うことは、実地踏査の重要性である。石仏についての見聞は、その場所に出向かなければつかめない真実がある。そして、調査行を終えて思うことは、「石仏菩薩細工」帳の重要性である。貞治が石仏造立にかける全てが、この細工帳に凝縮されていると言っても過言でないくらい重要な問題が記述されているのである。
 細工帳1番の「延命地蔵菩薩」=願主上穂柏木の小町谷氏と、絶作「聖観自在菩薩」=上穂の小町谷治良兵衛= が共に現在の駒ケ根市上穂柏木の親戚筋に当たる小町谷家になぜ関わっているのか。なぜ500mと離れていない場所に、記述の初めと終わり(絶作)があるのか。その答えは、細工帳40番「延命地蔵大菩薩」=中沢伊奈村大蔵寺=までの大方が、上伊那郡宮田村から中川村田嶋までの伊南地域に貞治によって造立され残された石仏群なのである。貞治が石仏師として行動する以前から、この地域は、守屋家先祖(曾祖父・祖父・父) の石仏造立の地盤であった。そして、細工帳の終わりの所に記述がある「三百三拾三体」の彫造数も、祖父貞七が達成したことに由来した目標であった。
 これらの事象について本文にて解説しようと思う。貞治は、先祖の仕事場を頼りに初期の彫造を開始したのだ。

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